学友が集う

画像
いつになっても学友はいいものだという。私も誘われて大学時代の学友に久々に会いました。

といっても初顔の人もあります。世代が違うからです。それは先輩後輩にも言えることです。私は岡山のK先輩が上京されるということで待ち合わせ場所に向かいました。見知らぬ諸先輩方が懇談中でした。少々場違いを感じながらもお話を聞いておりました。

元々、昔はこうだったという話はあまり好きではありません。なんだか自分が歳をとったみたいな気がするからです。
しかし同窓会など人生の節目を過ぎたあたりからお誘いが多くなってきました。

K先輩がいつになっても先輩は先輩という話に頷きながら、○○先輩はいつになっても変わらないという言葉が妙に頭に残りました。

二十歳前後に人生観というものがある程度確立されます。その貴重な時期を大学という同じ空間で過ごしたことの意義は大きいかと思います。「いかに生きるべきか」というテーマは重く或者には「自己開放」というテーマとして重くのしかかっていました。

 私は「自己開放」って何だったんですかね?と尋ねるとすべてのものから自分を開放すること。親、係累、社会・・・。そんなことを大真面目にやって実行しようとしていたんですね。とある先輩はしみじみとお話をされていました。

 私にとっては遠い、遠い昔、それもどこかで聞いたような話でしたが、そう言ったことにこだわって学生生活を過ごされた諸先輩もいらっしゃったんだなあと思いました。

今は昔、諸先輩型も実社会の管理職として働かれています。つかの間の休息かそれとも安息日かは知る由もありませんが、「また、会おう」という言葉だけでいいのです。再び青年時代の笑顔から一社会人の笑顔に戻っていく。

そんな姿を見送りながら私はふと田舎から状況してきた頃、都会の喧騒と雑踏の中で人生を考えてみたいという、遠い日の想いがよみがえってきたような気がしました。

そして今、まだまだ喧騒と雑踏の中にいる私ですが、学生だった頃の、何をどうしてといった自分への挑戦状といいますか、何をもって自分の人生を規定すると、自己実現とするといった焦りはなく、ただ自分のやるべきことを淡々とこなすことでしか生きられない私を感じるまで随分長い時間がかかったのだなあと思っています。

塾長

人気blogランキングへ←あなたの心に何かが残ったら、一日ワンクリックお願いします。励みにしています。

この記事へのコメント

この記事へのトラックバック